BUMP OF CHICKENの20周年記念ライブ「20」に行けなかった人のために
私はBUMP OF CHICKENのファンだ。
実はこのことを最近疑っていた。もしかして興味をなくしつつあるんじゃないかと。
こんなことは今までなかった
僕があなたから離れていく~
というオフコースの古い歌が頭を巡るくらい、自分の感情の動きについていけなかった。興味をなくしつつあることが怖かった。
BUMPは私のなかでは音楽(純粋に音楽でいうならもっと他にも好きなものはたくさんある。)とかそういうものに留まらず、自分の内的体験や感情の解放を促進する媒体や目印のような働きがあり、ある意味依存しているからだ。それなのに最後の砦かもしれないという思いで聴いたニューアルバム「Butterflies」もピンとこなかった。
そんなときBUMPの20周年記念ライブ「20」があった。2月11日のことだ。チケットは記念ライブということもあり争奪戦で、私はとることができなかった。そういうこともあってますます気持ちが離れたように感じた。
当日は、ライブのいろんな情報が飛び込んできた。私の好きな曲もやったらしい。昔のレアな曲もたくさんやり、喜びにあふれたライブ参加者たちの声が飛び込んできた。チケットのない人も音漏れを聴きに会場に行き、ロビーみたいなところに入れてもらえたらしい。そんな様子をみて、音漏れでも行けばよかったという後悔や、嫉妬やら何やらいろいろと黒い気持ちが渦巻き辛くなった。なぜ、いつも助けてくれる曲がこうやって自分を苦しめるのか。おかしな話だ。
ああ、私はそこに行きたかったんだ、ライブに行けなかったことが本当に辛かったのだと納得した。こんなこと他の誰にも言えやしない。いい大人が、たかが日本の人気バンドのライブでこんな気持ちになるなんて。そして、ライブに行けた人たちに「ライブ行けて良かったね」なんてあたたかい言葉なんてかけられない。そんな余裕ない。(私はこれでもわりと寛容に”見える”ほうだと思います。寛容なほうでもあると思うけど、寛容ではありません。)
気分がかなり底に堕ちたときに、あらためて辛いと思いながらも「Butteflies」を聴いてみた。
そしたら、そこに溢れる言葉と音の数々がキラキラキラキラ心に沁み込んでいった。こんな稚拙な表現しかできない自分にいささかイラッとするが、言葉と音の粒がキラキラキラキラしていたというのが、多分一番近い表現なのだ。曲が私を苦しめているのではなくて、自分の心が勝手に苦しんでただけなのだなと。そんな当たり前のことに気づけないでいて、曲に「ごめんなさい」と言った。
底に堕ちてみないとわからなかったのだ。自分の悔しく辛い気持ちを認識し、それでもどうしようもない行き場のない心に歌は寄り添うようにそこにあった。BUMPというより、自分の心の凄さなのかもしれないけど。心には深い領域があって、どうしようもない気分のときほど見えてくるものがあり、そこに本当の自分がいて色んな出来事が反転し、癒されるのだ。その本当の自分てのはオカルト的に言うと魂とか、いろんな表現がなされてると思う。
「Butterflies」に今の心が反応したのだ。だから、どうか「20」に行けなくて苦しい思いをしたBUMPファンの人は「Butterflies」を聴いてほしい。あなたにしか聴こえない唄があると思うのだ。行けなくて良かったのかもしれないとすら思えるくらいだ。行けた人は行けた人で幸せだと思う。だけど、行けなかった人も幸せなのだ。曲の神髄に近づける。ってなんだか聖書みたいなこと言ってるね。
曲の神髄っていっても私の中での神髄なので押し付けるつもりはない。藤くんは藤くんの心の動きのままに曲を作って、その曲に私の心がよく反応してるだけのことだ。BUMPはいつも心の動きのトリガーとなってくれるという意味では私にとって本当に優れているコンテンツなのだと思う。ただ、それは私にとっての内的体験であるから、他の人にとってもそうだというわけではないし、それでいいのだ。何が自分の心に響くのかは人それぞれで、同じものを見ても違う響き方があり、違うものを見ても同じ響き方をする場合があるだろう。
サン=テグジュペリの「星の王子さま」を例にしてみればわかりやすいのだけど、BUMPは私にとって、王子さまにとっての「花」であり「キツネ」であり、著者にとっての「王子さま」なのだ。しかし、「星の王子さま」も意味わかんないという人がけっこういるのであまり例えになってないのかもしれない。
BUMPの曲「花の名」なんかは星の王子さまと似たようなことを言ってる。
あなたが花なら沢山のそれらと
変わりないのかもしれない
そこからひとつを選んだ僕だけに歌える唄がある
あなただけに聴こえる唄がある
大切なのは「そのモノ」でなく、それを見る「私」の「心の動き」なのだなと思う。
しかし、癒しがあったからといってとくに外の世界が変わるわけではなく、自分の気持ちだけがちょっと変わる(成長?)だけだ。(いや外の見え方がちょっと変わるという意味では、外の世界も変わる。自分の見るようにしか世界は見えないからね。)
でも変わったように見えて全然変わらない。ライブに行けなかったことは変わらないし、なんだか忙しい毎日が続くのも変わらない。恐らくまた悩みは出てくるし、これからも、もがきながら地を歩いて生きていくっていう感じなのだろう。あまりにも自分はわからないことが多すぎる。本当に多すぎる。
そして「心が動いただけじゃ足りず、それに基づいて行動していくことが大事だ。」みたいなことを昔何かの本で読んだなと思い、いつも言葉の少ない私が、今回はこうやって長文をブログに書き、行動してみた。
行動することで、一つ「旗」をたてることはできたのかもしれない。このあまり誰も見ていないブログをBUMPファンが見る可能性は少なく、自己満足な「旗」だけど。
どこか遠くへ行きたい
仕事がちょっと忙しい。首が痛いのだけど休めない。
楽しそうなライブへの通行手形がなくて、必死で欲望や嫉妬と戦う。
欲望や嫉妬に打ち勝ったところで、自分の場所はないのだけど。
ちょっと勇気を出して苦境を聞いてもらおうとしたけど
聞いてもらえなくて、逆に相談を聞いてる立場。
せめて一人の部屋でゆっくり寝たいけど家事に追われる。
人生詰んだな…と思うほどではないけど
じわりじわりと苦しい。
日常の積み重ねは、なんと軽くて重いことか。
今まで心の悲鳴を聴いてくれた歌が、
逆に今、自分を苦しめているなんて
本当におかしな話だ。
その歌に罪はない。
それが起こっているのは外の世界でなく
自分の心の中の世界だから。
だから、誰も何も責めることはできないので
さらに辛くなる悪循環。
その循環をはずれて、飛んでいきたくなる。
そんなときに私の場合は、
「どこか遠くへ行きたいな」
という言葉が出てくるのかもしれない。
いやなやつ
会社の最寄駅から会社までは距離があるので、
歩いている間にいろいろ考えて、感情を切り捨てる。
歩き瞑想みたいなものだろうか。
私はよくイライラするので、それを外に出さないためだ。
その目論見は成功しているのか、穏やかな人に見られることが多い。
でも容易に切り捨てられるはずもなく
腹の底にはたまっているのだろう。
心の中は土砂降りだ。
本当に自分は嫌なやつだ。こんな人とは友達になりたくない。
影
なんでスピ系の人ってフワフワしてるんだろう。
フワフワしたおとぎ話の中で生きてる人より
必至で生きてる人のほうが好きだな。
中途半端な光があたると、影がながーく伸びちゃいますよ。
(自分の影も伸びてたりして。)
りきみ
持ってると思うから、力んじゃうのかもしれない。
失いたくなくて必死なのだろう。
ひまわり
夏が近づいてきたというより、すっかり夏で
それでも気分はあがらないので精一杯のひまわり。
決める
仕事忙しいわりに報われない感でイライラしてるときに
楽しそうにしてる人を見ると羨ましくて、苦々しく思ってしまうのに、
そう思うことすら自己嫌悪だから、さらにイライラが増長していると・・・
虹が見えたり。
昔の曲が聴こえてきたり。
言葉にできないのがもどかしいけど、
一瞬の魔法みたいに自分にふりかかって、少し解ける。(あくまで少し)
自分のペースでいくしかない。
憧れるものになりたいと思うなら、努力するしかないし、
向こう岸に行きたいなら、歩きだすしかないのだ。
やりたいようにできないなら、できない自分を受け入れるしかないし、
できる時期ではないのなら、できない時期であることを受け入れるしかないし、
次にできるようになるときまで、今できることをするしかない。
向こう岸に行くのが怖いなら、怖いことを受け入れるしかない。
そんなの求めてなくて、ゆるく生きていきたいならそれもいい。
全部自分で決めることだ。
自分がどうするかは、人が決めることじゃないのだ。
見る
モヤがかかって見えなくなってるときほど
見ようとして
晴れてるときには
見ようとしない。