再会・再開
もう4年もこのブログをご無沙汰していた。
その間にコロナやら色々あった。戦争まではじまった。
(色々で片付けていいのか?しかし私のできることなんて・・・)
最近も写真は撮っているし、相変わらず鬱々としている日や元気な日を繰り返している。散歩が一番楽しいかもしれない。
毎日毎日ちゃんと生活をする。
それだけで十分だし、それって意外と大変なことで恵まれたことなんだなと今更思う。
世界のゆがみ
この世界はなぜか自分が見たままの世界が広がっているので、自分の世界は自分が見たいように歪んでいる。
自分なくし
精神を病みやすい人というのは、人の話を聞いてないことが多い。自分の話ばかり。
だから、自分も病んでるときというのは、人の話を聞いてないのだろう。
落ち込んだときほど、自分の中でぐるぐるしてしまうので、逆に自分のことは忘れて人の話を聞いてみたらよいかもしれない。
一歩
たった一歩なんだろうけど、その一歩が踏み出せない。大きく感じる一歩だ。
隠
辛い出来事を笑いに変えたい。
曲とか絵とかでもいい。
そうじゃないと気が狂いそう。
穴ぐらの中に隠れたい。
せめて小さい小さい茶室に隠れたい。
誰の声も届かないようなところへ、
誰も探しあてられないようなところへ隠れたい。
誰にも会いたくない。
そうしていればまた、誰かに会いたくなるのかな?
ただただ
疲れました。
もう解放してほしい。
誰に言ってるんだろう?
言う相手もいないのにね。
憂鬱も花を咲かせる
syrup16gは憂鬱なバンドだ。
正確に言うと五十嵐さんが病んでいるだけかもしれないけれど。
しかし曲が素晴らしいというか好みすぎる。
私は音楽好き(主にロックと呼ばれるような)ではあるけど、あんまり音楽理論のことは詳しくない。だけど、五十嵐さんが聴いていた曲というのはおそらく私が好きタイプの曲なのだろうなと思ってしまう。メロディの節々にあっ!ここ!て所があり、脳みそが喜ぶ。
しかし、ずーっと憂鬱なのがいただけないと思っていた。
なんていうか、影響を受けやすいので憂鬱にひきずられるというか、曲に引きずられて自分がメランコリーになるとかそういうことでは困るのだ。
でも、ある日syrup16gの曲を聴いていて、
「綺麗だな、憂鬱って綺麗なのかもしれない」
と思ったのだ。
憂鬱を悪と決めつけていたけれど、そんな悪いものでもないなと。
自分の中にある鬱蒼とした部分が、こんなにカッコイイ曲に似ているのであれば、それって別に毛嫌いする必要ないのでは?と思ってしまった。
なるべく憂鬱にはなりたくはないのだけど、自分の一部としてそれを認めたときに、それはそれでアリだなと思ったのだ。
だってそれが自分の全てではないのだから。
銀閣寺には、「大切な苔」と「ちょっと邪魔な苔」と「とても邪魔な苔」が展示してあるけれど、排除はされつつもすべての苔がそのままあっていいんだなと思う。
それを感じたときと似た感覚だ。
(銀閣寺がどういう意図でそれを展示しているかはわからないけど、禅寺だから見た人に色々考えさせるためだろうし、色んな他の解釈はあると思う。)
それからはsyrup16gの曲にひきずられることもなくなり、味わえるようになった。